あぁ営業

首からぶら下げるタイプのネームプレートを最近よく見かけませんか? 
戸別訪問の営業さんは、この名札を必ずと言ってよいほどぶら下げています。それも、ほぼ顔写真付きのものを。

この顔写真、いつ撮ったものだろう? という名札を付けている方がおられました。

女性の営業担当者が事務所に来られて「この度、担当者が変わりまして、そのご挨拶に伺いました」と名刺を手にお話しになられるのですが、その女性が名乗る会社とのお取引もなく、また担当して戴く商品もない と不審に感じ尋ねると、その方の所属される会社内で、このエリアの担当が変わられた というお話。
飛び込み営業なのです。
それはそれで勇気のある行動と感心もしますが、大変なのだろうな と同情が先にたって参ります。

それも手法の一部かしら と思いながら、ネームプレートを見ると、別人の顔写真。
その辺をさりげなく尋ねると、10年前の写真とのこと。
うん、もちろんすぐに帰りましたよ。
自分に負い目があると営業はなかなかものを勧めるのが難しいものですから。
そのあたりの事情もなんとなく分かる気がします。

むかしの営業職は、情報を貰い、探し、適宜に伝えることで成立していた職種でした。
その匙加減が間違っていなければ、お客様から大いなる支持を得て、会社の中での発言力が増し、その結果重要な地位に辿り着くことが可能な実りの大きい職種ともいえます。

一方、学校を出て会社に入り、子供子供した自分が営業職に就くなど、とても考えられないと、殆どの人が思っていたのではないでしょうか。
この国では、学校で習った江戸時代の身分制度の名残りとセールスマンという名称・・テレビで面白おかしくお客様に謝ってばかりの中で、ずる賢く儲けるイメージ・・が先行し、とてもあんなに弁舌爽やかにお客様を丸め込めることなど出来ない と。

確かに毎回新製品の紹介と商品価格の情報しかお客様に出さない営業担当者もたくさんいましたし、それはそれで顧客の方も煩くなくて御しやすい担当者として仕事として成り立っていました。

しかし現在では、ネットを見ると商品情報、価格情報と買い手の方は調べることが出来てわざわざ訪ねてくる営業担当者から話を聞かなくても選べる時代です。

今回ネームプレートの写真を指摘されて帰っていった女性を見ていて、営業のスタイルがずいぶんと変わっていることを実感し、寂しい思いをしたものです。

その後訪ねてこられた大手問屋の営業マン。こちらは取引の結構深い仕入先さん。
自社の生産するきものは、新製品が出ると、今、有力店が展示を検討し始めました と話し、詳しく聞けばまだ全然売れていない・・・。凄い勢いで売れているという商品は、よく聞くと一つ売れたもの、更に二つ売れると売れすぎて在庫がない と。

やっぱり営業はこうでなくては。。。


編集部:この内容は以前商業誌に掲載された文章の一部を抜粋し、改訂したものです。

5月になれば

ミモザの花が黄色い絨毯のように茂る頃になるとスーツを単衣?に変えます。
銀葉ミモザw

衣替えは6月から。
むかしからそう言われてきましたし、きものの季節を尋ねられると、6月から単衣 と答えてきたにも拘らず、実際にはゴールデンウイークのさなか、洋服の衣替えを済ませてしまいます。

きもののTPOには昔ながらの「決まり事」があって、実際にこういった決まりごとの数々が、きもの姿で出掛ける意欲を削いでいるのも事実です。

この国では一気に洋服への文化へと舵を切ったこともあり、またそんなのは常識だろう という思い込みから、親から子へ、年長者から若者へときちんとした伝承が出来ていないのは、悲しいことです。しかしながら、それが逆に悦文カルチャーサービスのご飯の種になったりしてるので、それはそれでありがたいことかも と思いながら。
着るものについての制約やルールの継承はいったいどういったところが決めているのか? というと、今となっては闇の中です。昔ながらの型を破ることで次々と新しい装いを創出していった洋服文化に対し、保守貫徹を貫いていくきもの文化では、合理的か否かが判断基準になった現代社会で、きものに対する面倒さばかりが表に出てしまい、ますますきものの生活から人の心が離れていってしまうのは自明の理です。衣替えの根拠がなにしろ言い伝え 程度の根拠が薄い理由だからですね。

きもの姿は、自分のオシャレというより、周りのためのオシャレ というフレーズも、よく聞きますし、また我々も何かのついでに必ず伝えて参りました。しかし今になって考えるとこのフレーズは礼装では という前提がついています。洋服文化においても、パーティはドレス着用、ジャケット着用 はやはり他人の眼を気遣ってのことですから。

悦文カルチャーサービスの授業でも、最近は基本を知った上で、オシャレにするのはとても良いこと という教えに変わっています。
何が基本 と問われれば、昔から言われているという薄い根拠だけなのですが、半可通なきものオタクが、5月に単衣のきもの姿をした女性を見れば、まだ5月なのに と、得意の上から目線を飛ばしてくる程度のことで、江戸の末期、年中を単衣で過ごしていた生活ということは知らないのですから。当時の重ね着文化はいつの間にか姿を消してしまって、裏地のあるなしを季節に重ねていった、きもの屋の販売方法が定説化してしまっている悲しい「基本」なのです。

せっかく気候の良いこの時期、外を歩くのに暑い と感じれば遠慮なく単衣のきものでお出かけください。自分のオシャレ! をもう充分優先して良い時代ですよ!


編集部:この章は、以前に書かれた文章の一部を抜粋して掲載したものです。

コミュニケーションの変化

携帯電話でメールについて疑問を最近よく感じるのです。

理由はいろいろとありますが、人とのコミュニケーションがトンでもない変化を遂げていることを今更ながら実感します。

最初は手紙でした。
手紙を書くにはその構成を考えなければならず、社会に入ったばかりの時、当時の上司は、きれいな字でなくても良い、気持ちが伝わるような内容だ という旨の事を新人社員の私に何度も言っておられたのです。

その通りだと思います。
文章の起承転結を考え、失礼のない言葉を選び、相手に伝わる言葉と自分の気持ちを併せて文字に綴ることから・・・。

それがいつしか電話に変わりました。
電話では、その相手の気配を読むことを習うのです。
周りの音、相手先のしゃべり方、電話をかけるタイミング、電話をかけてご本人を呼び出していただく時の礼儀と、かける時間を図ることを学んでいきます。
その後、手紙の代替としてFAXも併用される様になりました。
FAXには、手紙にあったリードタイムが無いため、その書式が大幅に簡略化され、オマケにFAXを送った旨、受け取った旨を電話で相手に知らせる という副次的な というか、本末転倒したようなコミュニケーションとなったものです。
これは結構気を遣います。

電子メールと携帯電話の普及は時を同じくしてコミュニケーションの手段を席巻していきました。
電子メールの手法には、手紙で必要としていた時候、開けてから読んでいただくまでの流れ(私はこの流れを読む側の気構え と思っていますが)などお構いなしの実務文章。
アドレスに送ったが最後、読んでない方が悪い といった風潮になる送る側のエゴが剥き出しのコミュニケーション手段のように今でも思います。
携帯電話に至っては、電話に出ることが当たり前の鎖を付けたようなものです。
そう、電話をかける側からするとまさに、リード。

そして携帯メール。
そこには既に情緒は全くと言ってよいほどありません。
いや、私が受け取る携帯メールだけがそうだったのかもしれませんが。

ここからが本題です。
自己主張専門の携帯メールだったものに、最近、優しさの混じったものを感じるようになりました。
それは返事の必要がない ということをメール画面に滲ませつつも、
返事をしたくなる・・・。
そう、昔の手紙のように相手に気を遣う携帯メールです。

最近、きものを着る方が確実に増えてきていると思います。時間に追われるようになった70年代から、その数を加速度的に減らせてきたきもの姿がまた増える、つまり底を打った景気のように、上げ潮に載りだしたのかも。

きものは、相手のための装い。
相手を立てるために衣装。
優しさの衣装。

携帯メールの変化に同様のかほりを感じています。
相手の立場や時間に気を遣う 風潮。
この国の人がこの国に根付いた精神を僅かずつ取り戻してきているように感じるのですが、皆さんはどうでしょう?

戦後、お仕着せの西洋化が昨年終焉したことと繋がるのではないだでしょうか。
私には、今実感としてその想いを抱いています。
きものを着ない人には分らないかも???

私の携帯電話にたまたま、そんなメールが増えただけなのかもしれないのですが。


編集部:この文章は以前にブログに掲載された内容を改題、改訂したものです。

寝ても覚めても

事業を運営していくことの基本は、ひとつのアイデアが浮かんだ時にどれだけ考えるのか? の積み重ねがかなり大きな部分を占めているかということがあると思います。

こんなやり方はどうだろう? こんな人材をここに振って、これくらいの費用をかけて・・・。

およそ運営に携わったことのある人にとって、現状をより効率的に、より大きな成果が上がる手法は、どんな時も頭の片隅から離れる事が無いのでは?

部下をたくさん抱えるようになれば、そういった頭の中でアイデアを昇華させるという基本は、まさに寝ても覚めても というところでしょう。
そうなると、何かのヒントになることや、ふとした思いつきなど、これは!!
というアイデアが浮かぶことが多々出てくるものです。

むかし若かりし頃、その思い浮かんだアイデアは事業所に帰ってノートに記載し検討を重ね、ある程度まとまった頃合いで上司や同僚に相談、企画書を起こす頃にはバラ色の成功だけを思い描き、美辞麗句を企画書の後半で展開していたものでした。
もちろん書類になって提出した段階で見事に上から撃沈されるのが殆どでしたが・・。

経験を積んでいくと、こんな手法は夢物語! と自分で評価を勝手に入れるようなケースが増えますが、経験の分、アイデアの数はどんどん増えていくものです。
もちろん今でも種々のアイデアが浮かんでは消え、消えては浮かんできて、夜寝る前に浮かんだことが、とても良い手法に思え、そのアイデアに様々な角度からの脳内検討が実施され、明日の朝これを本格的に検討してみるぞ! と何となく明るい気分で安らかな眠りに就いていたりします。

しかし朝起きると、すっかり昨夜脳内検討したことを忘れているのです。
「どんな形で成功するのだったのかしら?」 とどうしてもそのプロセスが思い出せなくなっているのです。酷い時には、寝る前に考えた・・ということすら忘れてしまっていたり・・・。
この対策として、お風呂の中で思いついたこと、寝る前に考えた理論を眠い目をこすりながらメモをするようになりました。色々と考えた断片の象徴的な事をメモに書き記し昔のようにバラ色の将来を思い描いて安眠するのですが、翌朝、その断片を見ても寝る前にあれだけ巣払いしいと思えたアイデアも、さっぱりと思い出せないのです。
それは確かに寝る前の10%程度しか稼働していない頭で考えたものを朝、動き始めた頭で見直してみると実に他愛もないつまらなそうな企画なのです。
断片的なメモだからダメなのかと、その次は詳細に至る内容をメモして書き記したり等の対策をとってみたこともあるのですが、本当のところは断片的なメモだから昨夜の興奮が再現できない訳ではなく、そもそも寝る前にふと思いついたことなど、実はたいしたアイデアでない ということに朝になって気付くだけなのでしょう。昨夜は何でこんなつまらないアイデアに興奮したのだろう! と目覚めた頭は考え込んだりします。

人それぞれとは思いますが、頭の中でアイデアを模索する時、背筋が伸びているときが一番という方がいらっしゃいました。
背筋が伸びる姿勢なら・・・出番です。
きもの姿が一番と思うのですけれど。。


編集部:この文章は以前の商業誌掲載文を、改訂し一部編集者が加筆したものです。

1−A−1

青葉のころ
新幹線からみる小高い丘の雑木林。

新幹線の窓から見える町並みとさくら並木は途切れる事無く延々と続き、滅多に昼間の移動などしない人にとって新しい感動を与えてくれるものです。
まさに「延々と!」という表現が適当な長さで、東京駅を出て新横浜を過ぎて10分くらいして、やっと林や畑が見えてくるのです。東京駅を北に、西に向かっても同様な光景が続くのでしょう。夜、都心に比べれば暗い街と化していても、このエリアにあるポテンシャルは市場を考える人間には見逃せない魅力を感じます。

そこは、福岡という町は、ある意味で東京をとても小さく纏めた感覚の町といえます。それは市場の大きさとか事業所の数とかと言う話でなく、情報の集約と発信という意味で。近隣に福岡以上の大都市は存在せず、九州一千万の市場の頂点がこの街にある訳です。ないものは国政に関することだけですが、九州においては、お上なんてハナから信用ならないものとお腹の中で考えているので、特に不便はないのですが。大阪のように、あからさまにお上に不信感を出さないだけで。
この小さくまとまった集約感というものが、住みやすい街として、札幌と並んで選ばれる所以でしょう。コンパクトシティ、これって素晴らしい気がします。

ところで、この新幹線、
指定席の不公平感がどうしても納得出来ない事について。車輌入り口付近の人の出入りの多さと中央付近の静寂さの差。これはバスや普通の電車にも共通することですが、自由席の座った人と立たざるを得ない人の料金差。その点が飛行機の早い順に席を確保していく公平感と比して、代議士選出の際に問題となる一票格差裁判と同種の嫌らしさと繋がってしまいます。一票格差を人口当たり何人として、代議士の報酬は地元が払うとすればあの政治業者は真面目に仕事をするのではないでしょうか。代議士を選出出来なかった地方は税金が下がるということもありと思うのです。

むかしむかし、のぞみが初めて開通した頃、1号車1番A席という指定席を採ったことがありました。その頃は一番がなんとなく素晴らしいものに見えた頃でしたので、みどりの窓口でお願いして座ってみました。実際に乗車するときに延々とホームを歩く間に大きな後悔をしてしまいましたが、今考えるとその指定席はとることが出来ない場所になりましたので(昔は、のぞみ号は全車指定席でした。今は3号車くらいまでが自由席ですので、指定席として1号車はとれないのです)良い経験だったと思います。
今は、多様性というのが大切ということが理解できるようになり、「一番」を優先することなど無くなりました。

きものを着る ということは、結局そういう話なのではないでしょうか。人がそれぞれに持つ魅力を発揮する という理由で。
本気できものに取り組まなければ、こういった多様に美しいもの という素晴らしさに気付かなかったのかもしれません。
皆さんも個性の光る美しさを演出してください。もちろん、きもので。

編集部:この文章は平成18年春のメルマガに掲載されたものです。
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えつぶん

Author:えつぶん
悦文カルチャーサービスを通して色々と見たもの、聞いたものを皆さんに報告するコラムです。

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